
■ 「中国大返し」の本当のキモ
備中高松城の水攻めにあたっていた羽柴秀吉が、本能寺の変の第一報に接したのは天正10年(1582)6月3日の夜である。
明智光秀は2日の未明、本能寺に織田信長を襲い、直後に毛利方に密使を発していたが、これが秀吉軍に捕らえられたのである。
ここからの秀吉の動きは速かった。備中高松城主の清水宗高を切腹させれば包囲を解いて城兵を助ける、
との条件を毛利方に持ちかけて停戦を成立させ、6日には備前まで撤退。世にいう中国大返しの始まりである。
光秀が畿内制圧に動き出した8日、秀吉は居城の姫路城に着く。
3日後の11日、光秀が畿内諸将の支持を得られないことに焦りを募らせていた頃、
秀吉は大坂に入って摂津方面の織田方諸将を糾合にかかり、13日には山崎の合戦で光秀軍を破るのである。
秀吉の中国大返しについては、これまでも、万単位の軍勢をなぜ、これほどすばやく移動させられたのか、
兵士たちの食料をどう確保したのか、という問題が取りざたされてきた。しかし、軍勢の移動については、筆者は特段不思議だとは思わない。
なぜなら、秀吉軍は自軍の補給線を逆にたどっているだけだからだ。
まず、備前は秀吉に従っている宇喜多氏の領国で、備中戦線に対する秀吉軍の出撃拠点だ。
そうである以上、万一備中戦線が危機に陥った場合、備前まで退却することは最初から織り込み済みである。
次に、もともと近江の長浜を居城としていた秀吉は、播磨を平定し、中国方面軍司令官に任じられたことによって、姫路を居城としていた。
つまり、この時点で姫路は、備中戦線に対する後方支援基地なのである。当然、兵糧などの物資も備蓄されている。
であるならば、まず備前まで退却し、そこから腰兵糧(携行食糧)をもって姫路まで走れば腹を満たせる。
いったん兵を休ませ、姫路から腰兵糧をもって東に向かえば、2、3日で大坂に着く。
大坂は大都会だし懇意の商人などもいるから、兵糧の調達はどうにでもなる。こう考えるなら、軍勢の急速な移動そのものは不思議でも何でもない。
中国大返しの本当のキモは、秀吉の判断の速さに求めるべきだろう。
変事の第一報に接するや、ただちに戦線をペンディングさせ、軍を反転させる決断をためらわずに下し、実行に移したところが、秀吉の勝因なのである。
この秀吉の迅速な決断についても、不思議がる人が多い。6月3日夜の第一報の時点では、情報の真偽も信長の安否も確認できていないからだ。
毛利方への密書を謀略と疑うことなく撤退を決断できるものなのか?
いや、それをいうなら、このタイミングで光秀からの密使を捕まえた、という話そのものが出来すぎではないのか?
現状では、戦国史研究の第一人者のである先生方までもが、こうした点に疑問を呈し、
秀吉は光秀が謀叛することをあらかじめ知っていたのではないか、などと大まじめに論じている。
しかし、秀吉の迅速な判断と行動は、筆者にいわせれば不思議でも何でもない。
秀吉が置かれた「現場」の状況を「作戦」という観点から分析すれば、むしろ当然の判断とすらいえる。
どうも、研究室で史料や論文を読んでいる先生方は、戦場という現場で起きている事件を、「軍事」という観点から理解することが苦手のようだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/8031121986b9be4fbd728e468a2aec7b70c2262f
引用元: ・【歴史】実は不思議でも何でもなかった、秀吉の「中国大返し」 [ボラえもん★]
もう速報でもニュースですらない
所詮学者の論文なんて机上の空論だからな
食糧なんて2、3日食わなくてもどうでもなるし
その時代の人間なら野草でも食ってける
かなり前からから集めてないと無理だろ
お前は中国地方で苦戦している秀吉を助けろと命じられたら、すぐ連れていける数百の手勢で支援に行くのか?
使えない間抜けだな。
そういう味方は邪魔なだけだ。
どこぞの馬の骨にめっちゃ怒られててワロタ
自粛警察やってそう
鎧、具足は後から別の隊がまとめて輸送したということですか?
あるいは姫路城、大坂あたりに予備を置いていたとか。
何にせよ秀吉は機を見るに敏、用意周到、そして従来のやり方に捉われない柔軟性があります。
その戦の巧みさ、システム再構築に見られる合理性は少し前の時代の高師直のようです。
通り道の村々に金銀をばらまいてマラソン競技の中継地点のように握り飯や飲料水を準備させ
兵たちはそれらを走りながら喰らったとも言いますね。
AVみたい
(´・ω・`) またハゲのスレ立ってる
「おもてなし武将隊」
北畠の進軍や元寇たたかえるの
ポニーのって我こそはとか名乗るの笑えるのだが?
元寇側に日本の馬小さすぎワラタ
みたいな記述ないのか?
唐との貿易があったからサラブレッドも入ってきておかしくは無い
元寇との戦いをすぐに描かせた武将の絵があるでしょ
あれポニーに見えんよ
黒歴史だからほとんど記録されてない
ポニー説は基地外の妄想だから無視して
むしろ自分が高松城に専念してると見せかけて光秀に決起を決意させた
高松城を水攻めにしたのは追撃を封じて大返しするため
天才Qちゃんにお願いすればな。
毛利は、何度もチャンスがあったのに
全てスルーしたからな。
幕末の狂ったほどに倒幕の毛利の先祖とは思えんわ。
豊臣政権で毛利は大大名になっているんだから「見」で正解
不思議でも何でもない
光秀のスマホかよ
中国大返しもだが、その後の動きが迅速で的確過ぎる
周りがキョトってる時に、何の迷いもなく地盤固めたのはいくらなんでも手際良過ぎだわ
これやられたらどうするつもりだったんだろ
ちょっとでも行動が遅れてたら失敗してた
この時期の秀吉は日本史上最強の男
いや早い、早すぎるだろ。
光秀は嵌められたんだよ
信長が備中に向かうはずだったのよ
だから秀吉は行軍しやすいように道を整備して
道中で信長をもてなす準備はしてただろう
1582年の文献を見ればわかるけど信長が領内に来たら
その領地の部下は信長をもてなす慣わしがあったのよ
5月だったと思うけど信長が美濃から安土に向かう道中で
信長は5,6回のもてなしを受けてるのが文献に残ってる
あと秀吉のことだから信長本体到着とともに降伏させて
さすが殿とかやる準備はすでにできてて
備中高松城は降伏勧告を待ち望んでたと思われる
面白かった
現在の軍事、戦略、考察にも応用できるよ
基本は戦国時代とかわらん
北畠顕家はありゃ絶対に無理だ
日付とか記載ミスしてるはず
神速の移動は後世のでっち上げ
光秀の誤算はまさか毛利が和睦にこんなにも早く応じるとは思ってなかったのと
加勢を見込んだ細川らに無視され天皇も動かず迎撃準備が1週間近くも遅れた点である
我が家に~
花の香りを添えて~
必要以上な量を持ってた。
それに、前線に有った食料も輸送するのだから、先に行く連中が行く先々で住民から
米を借り、あとから付いてくる荷駄隊が返してまわるという方策もある。
荷駄隊が持ってる量は1日分じゃないから、二倍三倍にして返すって形にすら出来る。
それに、道中の拠点にも兵力が駐屯しているので、備中に居た雑兵の全てが、山崎
まで付いていく必要はなく、途中の拠点で入れ替えれば良い。
毛利と和睦して公然と撤退を開始する以前に、少しづつ撤退を始めても構わないの
だし、全部隊が用意スタートでこの時間から出発してこの時間に付くのは無理とか考え
ることに合理性がない。
秀吉や古い家臣は長浜に残してきた家族が心配だし、一刻も早く帰りたい心理もある。
大返しは無理とか言ってるほうが無理がある。
本物の明智軍は飛び込んだらしいが
勝ち残った人なんだから判断力も尋常じゃなかったんだろ😙
逆らったらハブられる。
で、のったふりして、光秀を裏切ったと
草鞋ぐらい履くわ
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